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新聞の投稿欄の先に進む試み


投書欄をもっと有効に活用できないものか

投書欄をもっと有効に活用できないものか

~ 一回性の発信から双方向の論議の場に ~

◆◆新聞の読者参加ページの現状◆◆

「立派な肩書きのある有識者の意見よりも匿名の人の本音を読みたい」という声が聞かれる。これは何を意味しているか? まず第一に「提供される情報にたいする信頼感が記事の種類により違う」ということである。そして【マスコミの報道による記事】よりも【一個人の発信する情報】に、より信頼をおいているということだ。第二に関心の問題がある。

 新聞の投書欄に掲載される同じ読者の立場から書かれた文章に、考えらさせられるものや共感させられるものが多い事実を裏づけるものだということである。  もうひとつある。「投書欄では一回載ったらそれでおしまい。その人の意見にたいして感じたことや考えたことを話し合う場がないのはつまらない」という声である。

 これまでの新聞の情報伝達の方式では、このようなニーズに応えることは無理だろう。  しかもこの変化の激しい時代に、これまで考えられもしなかった信じられない出来事があいついで報道されている。報道機関はただニュースを伝えるだけで、その【意味】までも解明することはできない。それだけに人々は【不安】になる。不安になるだけでなく、読者はその【未曾有の出来事の意味】を知りたいと思うようになる。もし誰かと誰かがこのことを話題にすれば、互いに興味をもって語り合い、考えるヒントをさがすだろう。

 したがって、新聞がふつうに報道する情報を《一次情報》とするなら、さらに《二次情報》を知りたいという欲求が読者に起きても不思議ではない。《一次情報》の信憑性に疑いをもつ場合や、やさしい解説を求める場合もふくめての話だ。

 そこで、次に予測できることとしては、一方的に垂直方向から与えられた《一次情報》と《二次情報》としての【有識者の意見】を読むのに飽き足らず、日常的なレベルで職業や住む地域がさまざまな【読者同士が互いに情報交換や意見交換をする】といういわば【水平方向のコミュニケーションにたいするニーズ】が湧いてくることだ。

◆◆インターネットによるニーズの補完◆◆

 たとえば、朝日新聞の[オピニョン]面の投書欄「声」に掲載された意見を読んだ読者の胸には、当然ながらさまざまな思考や感情の波紋が起きる。ところが、それが文章化されて感想・評価・意見(賛成意見や異論など)の形で投稿され、他の読者の目に触れることはまずない。たとえ疑問や質問が生じたとしても、心に思うだけで、誰かに話してみるとか、文章に表現したりということもないままに【没して】しまう。

 もちろんたまには「反響」として誰かの意見にたいする他の人の意見が、再び新聞紙上に掲載される場合はある。だが、このコーナーはもともと「論議」の場となることをめざしてはいないので、「単発」で終わるのがふつうだ。そしてこれを残念に思う人も少なからずいる。にもかかわらず、伝統的な大新聞の編集方針にたいし異を唱える購読者もいない。

 このままでは掲載された文章がどんなに良い意見だと思っても、逆にけしからん意見だと思っても、その思いをあえてぶつけてみようと投稿する人はなかなか増えない。

 だが、もし一方的に拝聴させられる総会が散会したあとに、全員参加のできる自由な論議の場が別の会場に設けられるとしたらどうだろう。  投書欄に飽き足らない新聞の読者が、インターネットのサイトに場を移し、投書欄に掲載された意見をめぐってののびのびとした論議に参加できたらどうだろう。もし、アクセス人数が増えてゆくならば、何百、何千、あるいはもっと多くの人々が同じ問題をめぐって意見交換することもできるし、意見をタイプに分類してその分布も見ることができる。  

 それだけでない。その論議のプロセスでひとりひとりの意見は変わりうる。最も重要なことは、インターネットの世界では匿名性ゆえに本音を述べやすいということだ。ということは、このツールの提供する環境により改めて真理の価値というものを正当に問える条件が整い、マスコミの堕落により失墜したメディアの価値もまた復権のチャンスを得るということになろう。

 しかもこの討論の会場に行くには交通費も時間もとられないし、貸し切りの制限時間もないし、いくら主張しても反対意見をもつ人間に殴られたり、恨まれたりする危険もないのである。

◆◆情報の流れの革命◆◆

 今度は同じ事柄について情報の流れという観点から考えてみる。「投書」というのは、一回的なものということになっていて、多くは一日だけ掲載されてあとは忘れられる性質のものでしかない。水系にたとえると、支流の流れの終わる末端のようになっている。しかも「投書欄」を「意見交換」や「論議」の場にしようという環境設定の意図は、新聞社にはないように見える。

 投書欄の意見は、その【無名性】ないし【匿名性】のゆえに、顧みられることが少ないけれども、それは決してそこから論議が巻き起こってくる可能性がないことを意味しない。

 そこに提示された問題の大切さや、感動の大きさいかんでは、さまざまな読者からの意見や情報を引き出すことができるかもしれないのである。そうなると、そこを基点として【放射状に情報が飛び火】し、さらにその飛び火先が【情報の新たな発信源】となるという具合に【多元的な中心】が生まれてくる。

 この点ではちょうどインターネットのサイトが【無限にリンクし合って】いて、【どこが全体の中心なのか決定できない構造】であるのに似ている。  【報道機関を唯一の中心とする情報ネットワーク】ではなくて、【無限に広がる読者のひとりひとりが多数の中心となるタイプの情報ネットワーク】へと移ってゆくということである。ただし「情報」というものを、マスコミから流される報道内容とのみ定義せず、すべての人々の発信できるものであるとするならばの話であるが……

 国家権力が国民にたいする支配を強めるときに行う垂直方向の情報操作に抵抗するには、水平方向の情報交換の強度を高める以外にはないだろう。  なぜならば、中心がひとつしかない一元的な価値判断の基準のもとに流された情報を受け取るとるのはきわめて危険なことであって、この弊害をこうむらないためには、たくさんの観点やいくつもの中心をもった情報ネットワークの形成がぜひとも要だからである。

これをできるだけ手遅れにならないうちに行うには、いちおう民間の報道機関である新聞社にたいし、情報の受け手である購読者が、同時にオートリバースのように情報発信者にもなることを消費者として主張し、双方向的かつ多中心的な情報の流れが起こりうる情報ネットワークへと変えてゆくしかない。そしてもし、新聞社がこの要求に応じないならば、購読を断るという姿勢に出るのだ。新聞を読まなくても代わりにインターネットを通して情報が得られる。この画期的な要求は【消費者主権の行使】に当たる。

これはまったく新しい革命的な情報ネットワークになる。ここできわめて大事なことがひとつある。このことは従来の情報社会ではあまり自明なこととされておらず、どちらかというと、盲点になってきた。次節でその説明を展開する。 

◆◆情報価値の革命◆◆

 記者が書いた記事やコラムニストの書いた囲み記事、それから有識者の書いた論説と比べてもその価値において見劣りしないどころか、余程さえているものがあるのは事実だ。

 どうしてこんなに光るオピニョンが、または美しい体験を綴った文章なのに、それほど価値のない情報だといわんばかりに、目立たぬ字の大きさと書体で紙面全体のうちのごく一部のスペースしか与えられていないのか。

 それは、【外部からもたらされる情報】こそが価値のある情報だというマスコミの信念が編集方針に反映されているからだろう。ところが、【内部からもたらされる情報】も十分に対等な価値をもつ情報であるとしたらどうか。【内部からもたらされる情報】とは、ここでは特に学者とか専門家とか要職にある者など有識者ではない、一般市民が体験し、感じ、考えたことである。ジャーナリズムの常識では、【客観的事実】と【意見】に区別しているだけで、前者を【外部】とし後者を【内部】とする意識はあまりない。そして、【客観的事実】を報道することを第一にし、それにともなってニュースバリューをもつとされる【意見】だけが、取材対象として選ばれる。つまり【外部】の情報が優位なのである。

 個人ないし集団の内部からもたらされる情報と外部からもたらされる情報は等価である。  この前提に立たないかぎりは、情報の受信者が同時に発信者にもなりうるという発想は社会的認知を受けにくいと思われる。

◆◆マスメディアの役割の革命◆◆

 そもそも報道機関というのは、「知らせる」ということだけにあまりに価値を置き過ぎているのではないか。国民は「知る権利」がある。それに応じて情報提供するのは、奉仕することになる。新聞社をはじめとする企業は、本来的には営利事業である以上に、社会奉仕をするという意識をもつべきである。

 取材から編集、発行、販売にいたるまでにつぎこまれる金と人と技術ははかりしれない。膨大なネットワークを使って情報を収集し編集して提供するということを組織的にやってのけるマスコミが、権力や権威を握ってしまうのもわからないではない。それでも本来は正しい情報の提供とともに、国民が主権者として自律的に考え健全な判断できるように積極的に助けるというきわめて大きな使命があったはずである。

 しかし、現実はどうだろう。読者は一方的に国内や海外のニュースをもちこまれ読まされる。そして有識者の論説や専門家のコメントを与えられる。  読者は情報を受け取る過程では、それぞれ【孤立的な状況】にいる。他の多くの読者が記事をどう読んだのか、どんな感想や意見をもっているのかを読者同士が互いに知る手段はない。そうした【フィードバックの機能】を新聞が十分に果たしているとはいいにくい。

 そもそも新聞がもっていた権力を監視し間違いを批判するという役割がいつのまにか果たされなくなってしまった。健全な民主主義社会の民主性と良識を保つことに貢献するつもりなら、新聞はその編集方針として【意見をめぐる意見】を尊重する姿勢を取り入れ、これを活性化しつつ読者の体験価値や良識を愚弄することのないよう配慮してゆくべきだ。

 一方的な情報のたれ流しでもなく、また一元的な価値観に基づく単純な視点による報道でもない、多元的な中心をもち循環型の情報の流れを可能にしながら、価値のうえでも真にバランスのとれた情報を伝えてゆくことこそが、21世紀のマスメディアの使命である。  

◆◆ネティズンとしての社会的地位◆◆

 新聞のもつ圧倒的な情報収集力と膨大な数を誇るデータマンと編集にたずさわる有能な人々の存在にもかかわらず、新聞には決定的に欠けているものがある。それは新聞には感受性がないということだ。これは読者の頭脳に情報を与え続けることはできても、読者の心に働きかけにくいことを意味する。

 五感をとりいれるレセプターの役割を果たすのは、じつは読者である。その読者からの情報を取り込むことのできないメディアは、その頭脳の細胞組織の新陳代謝が滞って早晩硬直化する。

 この硬直化は、読者の無力感を募らせる。読者から受け取るものが少ないと考える報道機関は不幸である。従来の新聞が与えるのは「知識と情報」までだった。「理解」に到達するには、情報を選択したり判断したり、そこから考えたりするプロセスを要するし、対話が役立つこともある。対話に最も適しているのは、インターネットである。

 読者同士が相手の意見を否定することなく互いに意見を述べ合い、立場の尊重ができれば、これほど「理解」を広め深めることはない。  様々な実地に対応する情報提供は、むしろ水平方向のコミニュケーションから起きてくる。自分にとって必要な情報を入手するのには、新聞よりもウェッブマガジンが向いている。 

 もし、各読者の内部からの情報、さらにそこから派生した情報、つまり多次元的で多中心的な情報を新聞の制作過程に積極的かつ果敢に取り入れてゆくならば、新聞の提供する情報の質と次元は格段に向上することはまちがいない。

 新聞その他のマスコミの情報の受け手であった人々は、従来のマスメディアにたいしインターネットを通じたマルチメディアの登場で、隷属的な状態を脱することができるようになった。そして、バランスのとれた情報の流れと健全な情報価値の尺度の保証される環境に恵まれたネティズンとしての社会的地位を、飛躍的に向上させることになろう。  


変更履歴:

v 1.0.1
2001-12-23
Akaam
いくつかの校正を WOMBATに 投稿

2001-12-24
Setu
html化
v 1.0.0
2001-12-23
Akaam
オリジナル 原稿を WOMBATに 投稿



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